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新そば発酵学者・文筆家 小泉武夫
山梨県との県境に接する長野県のある町で新そばを食べることができた。友人に案内された、そのそば屋は1軒の農家であった。「そば屋」なんて看板など1枚も出ていないので、よほどのそば通でもない限り知る人はあるまい。玄関を上がるとすぐ左が座敷になっていて、すでに数人のそば通たちが来て、そばを注文していた。外に止めてあった車のナンバーから、横浜からはるばる、その店のそばを食いに来た人であろう。 私たちも座敷に並べられた飯台に向かって座り、注文して待っていると、少々無口な女の人が箱にそばを盛って運んできてくれた。四角いふたのような箱に、小分けしたそばがいくつも盛ってある。「それでは」という互いの合図で、そのそばをタレにつけて、ズルズルと吸うようにして口に入れた。 その瞬間、甘く郷愁を感じる新そばの芳香が、軽く鼻孔をよぎり、次いで噛みはじめるとすぐに、そばの上品な甘さとさわやかなうまみ、タレの絶妙なだしの濃い味が複雑に口の中に広がっていって、誠にもって美味であった。そばのコシはしっかりとあって、歯触りも実に快い。だから箱のそばは、見る見る間に少なくなって、ついに最後の一盛りになってしまった。どうもこういうときは、似合いもしない遠慮が出てしまい、なかなか先に手を出す勇気がなくなるものだが、そのときはもう箸の方が先に独り歩きをしてしまい、あっという間に平らげた次第であった。 聞いてみると、そのそば屋のそばは、添加物は何もなく、ただ畑から収穫してきたそばだけでつくるのだと言っていた。帰り際、主人に「つな ぎは使わないのですか」と聞くと、語調強く「そんなもの使うわけがない」と言う。何だか客であるこちらの方が怒られている気がしてシュンとなった。でもまあ、こんなにうまいそばが食べられたのであるから、ここは我慢、我慢と自分に言い聞かせた。 どうもこういう通人が通うようなおいしい店というのは、そば屋に限らず、無愛想なところが時々あって、恐れ入ることもしばしばだ。「料理は人柄を表す」という名言があるそうだが、それはどこへ行ってしまったのだろうか。 小泉 武夫(こいずみ たけお) イラスト/茂本ヒデキチ |
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