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にっぽん蕎麦紀行
 
 



◎先祖のそばをガンコに守る6代目


『弥助そばの6代目、金 昇一郎』
『弥助そばの6代目、金 昇一郎』






『弥助そば』は、今も二万石橋のたもとに健在。弥助から6代目の金(こん)昇一郎さん(54)は、わんぱく小僧がそのまま大人になったような人。澄んだ目をクリクリさせ、小気味のよい秋田弁で店の歴史を語ってくれた。 2代目の倉松が面倒見のよい人で、多くの弟子を育てた。

今もその流れをくむ店は、西馬音内の『小太郎』と『松屋』、羽後町三輪の『信太(しんた)そば』、湯沢市には『弥助そば』の支店もあり、合わせて5軒のそば屋が“冷やかけ”の伝統を守り続けている。」 フノリでつなぐのも昔のまま。原料は北海道の襟裳(えりも)岬から取っている。

「まんず困るのは、観光客の多い夏だな」と、金さんが言う。「オレは冷たい天ぷらそば、頼んだ覚えないゾ、なんて文句しゃべるのサ。西馬音内では冷たいそばだけなんですと、なんぼ説明してもチ(聞)かないんだワ」
「そんなとき、どうするの?」
「すかだねから、熱ぐすて食わせる」
「でも、うれしくない?」
「ンだ、うれすぐない」


 



◎弥助の10年間を推理する




弥助はどんな経路で大阪へ行ったのか…金さんと二人で考えた。
当時、北海道と近畿を結ぶ北前船は秋田の港にも寄港した。弥助はそれにもぐりこんで大阪へ行き、砂場のそば屋に奉公したのではないか。 砂場とは400年以上も前、豊臣秀吉が大阪城を構築したとき、諸国から集めた建設資材を集積した所。そこに集まる人々のために、日本で最初のそば屋が生まれたという説がある。(そば切りの歴史はそんなに古くないとの反論もあるが)間違いない事実は、その後、歓楽地となった砂場に多くのそば屋が軒を連ねていたことで、大阪では「砂場」がそば屋の代名詞となっていた。(なぜか、幕末から明治にかけ、砂場のそば屋は続々と江戸へ移って行った)

フノリをつなぎに使うのは、越後(新潟県)の小千谷(おぢや)付近の流儀だ。弥助は大阪からの帰り、小千谷のそば屋でその技法を覚えたのではないか?
そんな私の推理に、「きっと、そうだべな」と、金さんはうなずいた


 
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