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にっぽん蕎麦紀行 - 第31回
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蕎麦屋と旅館を両立させた女傑
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未亡人のはなさんは蕎麦屋を大いに盛り立て、別に宿屋も開いたというから、よほどの才女だったのだろう。宿屋の名は「湯浅」の旧称を頂いて『炭屋』だった。

はなさんは相談相手だった亡夫の義弟と親しい仲となり、女の子が生まれて、はると名付けた。
『田毎』『炭屋』とも繁盛して、3人の子も成長。これで養子の良雄と実子のはるが夫婦(めおと)になってくれれば、と願ったが、こ の2人が犬猿の仲…。
結局、『田毎』を良雄に継がせ、『炭屋』ははるに、次男には新京極に『田ごと』という蕎麦屋をもたせた。
『本家田毎』の系図では、徳兵衛が初代、はなは2代目、良雄を3代目としている。そして4代目が良雄の子の銀治。当主勝也氏の父である。
「祖父の良雄は奔放な性格の遊び人で、かなりの借財を残したが、父の銀治は正反対のマジメ人間で、傾いた店を立て直しました」
銀治さんは義理の叔母にあたる『炭屋』のはるさんとの仲を修復し、親しく付き合った。現在の『炭屋』は、京都で3本の指に数えられる名旅館として知られている。
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"東京の蕎麦"に大ショック
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昭和17年生まれの当主勝也氏は、京都の名門、同志社大学に進んだ。
r大学では法学部。と言っても、同志社はグリー(男声合唱)クラブ活動が盛んで、私は勉強より、そっちの方に熱中していました」ヤボで忙しいだけの蕎麦屋を継ぐのはイヤと造反した勝也氏は、一流商社の入社試験を受けたが、見事に失敗。
「仕方なく店を継ぐ観念をしたが、やる以上は、旧弊な店を徹底的に改革してやるゾ。そ れにはまず、東京の最高の蕎麦屋で修業しようと考えました」

強力なコネがあって、東京の銘店中の銘店、『かんだやぶ』に住み込むことができた。

「初めて『かんだやぶ』へ行き、蕎麦をごちそうになったときは、まさにカルチャー・ショックでした」
汁の辛さには驚いたが、蕎麦ってこんなに美味しいものかと感心した。

もうひとつ驚いたのは、従業員の数が多いこと。数十人の若い衆が大部屋で寝る。その3分の1は蕎麦屋の息子の修業組だが、ほかの従業員との分け隔てはなかった。
「堀田康一社長(先代)の経営姿勢に心を打たれました」と、勝也氏は言う。
「かんだやぶ」では、店の収支はすべて、従業員にガラス張りだった。その信頼関係と近代的な経営感覚が、あれだけの量の蕎麦を最高の品質で作れる原動力なんですと、堀部さんは言う。
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『本家田毎』の5代目店主、堀部勝也さん
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『本家田毎』の5代目店主、
堀部勝也さん

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日本橋で見つけた恋女房
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『かんだやぶ』に入って一年後、堀部さんは日本橋高島屋内の支店に配属され、別の売り場で働く順子さんと知り合った。
京都三条の若旦那と、お江戸日本橋の美女。まさに東海道を結ぶ恋だった。
翌昭和42年、順子さんを連れて京都に帰ると、 堀部さんは直ちに店の改革に取りかかった。
関西式のうどん用の深い釜を、東京式のガス釜に変え、材料に凝り、メニューの数は思い切り絞って、一つ一つの内容に手をかけた。その分、値段もあがった。
昭和57年に、店舗を大改装した。店の奥にあった広い庭をコンパクトに造園し、客席を広げて、奥庭を一望できるようにした。
そんな息子を見守りながら、銀治さんは90歳で亡くなった。
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『本家田毎』の堀部さんご夫妻
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『本家田毎』の堀部さんご夫妻
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ミニ庭園を望む『本家田毎』の座敷
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ミニ庭園を望む『本家田毎』の座敷
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