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にっぽん蕎麦紀行 - 第32回
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女傑2代目の店おこし
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戸籍には明治19年に転入…となっているが、桑名出身の近藤初次郎が、この場所で蕎麦屋を開いたのは、それより何年か前のことだった。「文明開化の時代、横浜は全国の若者のあこがれの場所だったんでしょう」と、博昭さんは言う。初次郎は妻を持たず、せいという女の子を養女にして、大切に育てた。せいさんも独身で過ごしたが、なかなかの女傑で、義父の死後、『桑名屋』をいっそう繁盛させた。大正12年の関東大震災のとき、横倒しになった店を翌日には引き起こして、復興作業に従事する人たちに蕎麦を食べさせたというのが、せいさんの老後の自慢話だった。

昭和に入ると、横浜中央市場の中に支店を出し、2つの店を市電で掛け持ちする忙しさだった。せいさんは夫婦(めおと)養子を迎えて、店を継がせた。その豊さんと多美さんが博昭さんの両親で、昭和23年に博昭さんが生まれた。「忙しい両親に代わって、孫の私を可愛がってくれた優しいおばぁちゃんでした」と、近藤さんは言うが、せいさんは、昭和34年に64歳で世を去った。

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宿場祭りの実行委員長に
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博昭さんは高校野球で有名な藤沢市の藤嶺(とうれい)高校に進み、野球部で活躍した。父の豊さんは、息子を一流の蕎麦屋で修業させてから店を継がせるつもりだったが、56歳で急逝し、20歳の博昭さんは否応なく店を継ぐことになった。高校野球の経験から、町内の少年野球チームの監督を頼まれ、街の人々との付き合いもできた。宿場の歴史を研究するグループと知り合い、その感化を受けて、町内の「宿場祭り」の実行委員長を務めるようになった。 一方では、神奈川県の麺類組合の理事長だった中区福富町の『太田屋』の主人、太田政治さんの指導で、蕎麦打ちの技術を仕込まれた。その『太田屋』に、山形県出身の春子さんが働いていた。2人は結ばれ、太田理事長の媒酌で式を挙げた。ともに24歳の時だった。

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宿蕎麦屋のアイデンティティ
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商工会議所が経営者講座を開くと聞いて、申し込んだ。行ってみると、受講者は大手企業の管理職ばかりだった。そこで「コーポレート・アイデンティティ」という言葉を覚えた。「企業の独自性」。ヨソの店と違ったことをやれ。これだと思った。「ヨシ、おれは宿場の蕎麦屋に徹しよう」

昔の宿場の商家の絵を集め、「こんな店を建てたい」と、知り合いの宮大工に相談すると、「それは面白い」と、話に乗ってくれた。クギを一本も使わず、木口を組み合わせる。新しく見えてはいけない。宿場の息吹がただようような「古い店」。昔からの店を取り壊し、古くて新しい店が竣工したのは平成2年だった。調度、備品にも凝りに凝った。「女房や子供も面白がって、皆でメニューのデザインを考えました」

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