にっぽん蕎麦紀行 - 第41回


文無し絵かきの置き土産

店の奥に、色あせた絵が飾られている。恵比寿さまと大黒さまが踊っているフシギな絵だ。「百数十年前、1文無しの絵師が飲食代の代りに描いていったものです」と、松浦さんが説明する。落語にも似た話はあるが、昔の街道ではよくあったことなのだろう。当時、うどんは「うムどん」と呼ばれていた。上州はどちらかといえば、蕎麦よりうムどんの国。『けむりや』が蕎麦も売るようになったのは明治以降だが、「現在、夏は7・3で蕎麦の方が売れます」と、主人は言う。

絵描きが残していった絵

絵描きが残していった絵

軽妙なそば打ちの妙味

信正さんの父、6代目の亮一さんには2人の息子がいたが、兄の賢吾さんは教職を志して大学に進んだため、3つ年下の信正さんが店を継ぐことになった。
高校を出た信正さんが、東京の蕎麦屋に修業にいくとき、父は「蕎麦打ちはウチで教える。東京では商売のやり方を勉強してこい」と言った。その言葉の通り、3年を東京で過ごして帰った信正さんは、父についてミッチリ、蕎麦打ちを学んだ。

いま、60歳を過ぎた信正さんは、朝・午後・夕方の3回、蕎麦を打つ。午後の蕎麦打ちが始まった。まず、朝、捏ねておいた蕎麦の玉を台に載せ、布をかぶせて、数分間、足で踏む。足で踏むのは、普通、ウドンのやり方だが、短い時間でも足で踏むのは、上州流のやり方なのだろう。玉が平らになると、3本の麺棒を使い分けて素早く伸ばし、それを畳んで、トントントンと切る。力を入れず、軽い動きだが、蕎麦が生き物のようにスルスルと手についてゆく。まさに名人芸だった。
表に車が着いて、息子の和紀(かずのり)さん(35)がアセだくで帰ってきた。出前を下げてきたのだという。渋川には大手・中堅の化学工場が多い。相当量の出前をかなり遠くまで運ぶのだという。
和紀さんも東京で3年、和食を勉強した後、伊香保の温泉ホテルで板前の経験を積んできたと、明るい口調で語る。「蕎麦は打たないの?」と聞いたら、「今のところ、うどんの担当です」と笑う。どうやら、蕎麦打ちの免許皆伝は、まだ受けていないようだ。

蕎麦を打つ信正さん

蕎麦を打つ信正さん
息子の和紀さん

息子の和紀さん


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