《連載》虎視眈々 片山虎之助の眼

日本麺類業団体連合会が発行する冊子『麺』の随筆です。

天井裏の俵から、天保時代のソバの実が

第五回 片山虎之介

飲み食い話の玉手箱

平成10年の出来事だ。福島県大熊町の旧家、横川家の古民家を解体していた人たちが、天井裏から真っ黒に変色した六つの俵を発見した。何が入っているのかと開けてみると、出てきたのは大量のソバの実だった。

横川家の人の話では、今から5代前の先祖、横川助治郎さんが、ソバの実を隠したという話を聞いたことがあるとのこと。横川助治郎さんが生きたのは天保時代(1830.1843年)。歴史上有名な天保の大飢饉のあった時代だ。

天保の飢饉は江戸三大飢饉のひとつに数えられるほどの大飢饉だった。天保4年(1833)ごろから天候異変が起こり、田植えの時期になっても水田に氷が張るような天候が続いた。さらに大雨などで洪水の被害も重なり、農作物は壊滅的な被害を被った。さらに稲刈りの時期に雪が降ったとも伝えられている。それが一年では収まらず、翌年も、さらにその翌年も続き、一説によると6〜7年間、このような天候が継続したのだという。

飲み食い話の玉手箱

稲もそのほかの作物も不作で食料が足りず、多数の餓死者が出た。被害は全国に及んだが、特に東北地方の状況は深刻で、秋田藩では全人口の4分の1が餓死したとも伝えられている。

この悲惨な体験をした横川助治郎さんは、子孫に同じような災いが降りかかったときの対策として、緊急時に栽培するようにソバの実を天井裏に隠したのだ。ソバという作物は成長が早く、種を播いてから約75日で収穫できる。その早さが買われ、昔から稲が凶作のときなど、ピンチヒッターとしてソバが播かれ、人々を飢えから救ってきた。ソバは主食というより救荒作物として人間に寄り添い、その命を支えてきた作物なのだ。

俵から出てきたソバは乾燥しきっているが、なんとかこれを発芽させることはできないだろうか。ソバを管理することになった福島県生麺協同組合青年部の人たちは、あちこちの専門試験場などに栽培を依頼してみた。しかし結果は期待に反し、どこの研究機関でもソバが芽を出すことはなかった。

飲み食い話の玉手箱

そこで福島県生麺協同組合青年部の鈴木昭孝さんは、山形県にある鈴木製粉所の、先代の社長であった鈴木彦市さんに最後の望みを託した。ソバを知り抜いた鈴木さんなら、あるいはなんとかしてくれるかもしれない。

平成11年、鈴木彦市さんは、今まで発芽を試みた研究所とは、まったく別の方法で栽培しようと考えた。昔から農家に伝わる言い伝えの通りにやってみよう。「ソバを播くときは、水はいらない」これが、その言い伝えだ。

鈴木さんは、その言葉を忠実に守った。ミズゴケを細かく切り刻み、その上にソバを播き、ミズゴケに含まれているごく少量の水分だけで育ててみたのだ。数日後、このソバが、驚いたことに芽を出したのだ。人々は喜びに湧いた。そして、この小さな双葉を、「天保そば」と命名したのである。

飲み食い話の玉手箱

さて、その天保そばだが、どんな味なのか。とても興味があるところだ。関係者の話を聞くと、「今の蕎麦とはまるで違って、餅のような弾力があり、香りが強く、味に野性味があり、驚くほど美味しかった」のだという。

「天保そば」を復活させる活動は、山形の蕎麦屋さんのグループと鈴木製粉所が行っている。現在、天保そばは、まだ店で食べることはできない。しかし今年、天候が順調に推移すれば、12月ころ新蕎麦ができる。そうなったら山形の「天保そば保存会」の店13店舗で、天保そばをメニューに載せることになっている。会長の店は『そば屋 惣右エ門』という手打ち蕎麦店だ。

昨年は天候が不順でソバが不作だったが、今年は元気にソバが育ってほしいものである。

そば屋 惣右エ門

山形県山形市早乙女1番地
023─633─0055

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