《連載》虎視眈々 片山虎之助の眼

日本麺類業団体連合会が発行する冊子『麺』の随筆です。

染物業から蕎麦店に転身
短期間で評判の名店になる


第七十三回 片山虎之介

粗挽き、細打ちの見事な蕎麦だ。

腰も、味も、香りも良く、喉越しも楽しめる。

群馬県伊勢崎市『すだ金』主人、須田富雄さんが打った蕎麦である。

『すだ金』の近所にお住まいの方は幸運だ。うまい蕎麦を食べたいと思ったら、この店の暖簾をくぐれば、いつでも望みが叶うのだから。

『すだ金』の創業は平成13年。主人の須田さんは、この店を開く前は染物の仕事をしていた。『すだ金』というのは、染物業の当時から使用している屋号だ。

蕎麦の世界に転身したきっかけは、手打ち蕎麦の教室で、蕎麦打ち体験をしたことだという。思ったより上手くできて、蕎麦打ちの面白さに開眼した。

それから2カ所で修行して、一年後には蕎麦店を創業した。

いわば素人同然の状態から蕎麦店を開業したわけだが、それまでの間、蕎麦打ちは熱心に練習を重ねた。

そして、たどり着いたのが、この蕎麦だ。

何十年も辛い修行をしなくても、その気になりさえすれば、こういう見事な蕎麦が打てるのだという好例だろう。

今では『すだ金』の蕎麦を味わうために、わざわざ県外から訪れる客も少なくないという。

「お客さんに、おいしい蕎麦を食べてもらいたい」という思いこそが、この店の原点だ。この店の、この蕎麦を味わいに、多くの人が集まる。特に宣伝をしているわけでもないのだが、うまい蕎麦から立ち上る香りというものは、県外までも届くらしい。鼻の良い蕎麦好きは、それに惹かれて伊勢崎市までやってくるのだろうか。

『すだ金』のメニューを開くと、「すだ金名物 そばいなり」という商品がある。蕎麦寿司の一種といえる料理で、いなり寿司の中身を蕎麦にしたものだ。

これがおいしいと評判なのだが、実は『すだ金』の名物は、「すだ金名物 そばいなり」だけではない。すべてのメニューが名物と呼ぶに価するのだ。

常連客には、それぞれひいきにしているメニューがあって、たとえば生粉打ちの 「かきあげ天せいろ」が気に入っている人は、いつもそればかりを注文する。

また「辛味大根おろし」が好きな人は、決まってこれを食べる。

いろいろな客の好みに合致する多彩なメニューが揃っているのだが、重要なのは、そのどれもがおいしいということだ。

蕎麦のおいしさこそが、客を引きつける引力になる。ひとは、そういうところは正直だ。うまいものの味は忘れない。何年たっても、あの店の蕎麦は、うまかったと覚えていて、次に機会があれば再訪する。

そもそも蕎麦店の始まりというのは、そのようなものだったのではないだろうか。村はずれにある家の娘さんの打つ蕎麦がとてもおいしいから、お願いして御馳走してもらおうというような人がどんどん増えて、やがてその娘さんの家は、店という形になったのかもしれない。

似たような話が江戸の昔にある。ご存知の方も多いと思うが、江戸時代、浅草にあったお寺「道光庵」は、庵主が打って檀家の人に振る舞う蕎麦がうまいと評判になり、たくさんの人が、その蕎麦を食べに押し掛けて、寺なのか蕎麦屋なのかわからなくなったという。

そういう形で店が繁盛するのがいちばん自然なのだろう。

『すだ金』には、ちょっとそれに似た雰囲気がある。


そばきり酒房 すだ金
群馬県伊勢崎市太田町272
電話 0270─40─5525

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