麺類雑学辞典

 ただ、『江戸名所図会』(天保7年・1836)や『武江年表』(嘉永元年・1848)などで知られる斎藤月岑の日記『斎藤月岑日記』の明治四年の条に「回向院田舎そば」という記述が出てくる。ただし、このそば屋の初出は文久2年(1862)の条で、「回向院前太そば食べる」とある。この「田舎そば」は、嘉永6年(1853)版『江戸細撰記』に「両国 田舎」と掲載されている店のことだ。町名主でもあった月岑は大変なそば好きで、日記中には食べ歩いたそば屋の名が几帳面に記されているが、この記述によって、幕末頃の江戸には「田舎そば」というそば屋があったこと、そして、その売り物のそばの色はともかく、太いそばだったことは確かである。

 一方、しばしば田舎そばと同義語として使われる言葉に「馬方そば」というのがあるが、こちらは江戸時代末期頃の江戸のそば屋の俗称が語源とされる。四谷御門外にあった「大田屋」で、挽きぐるみの黒っぽいそばだったと伝えられる。ただし、太さは不明。

 大田屋の創業は寛永18年(1641)。四谷は甲州と青梅の二街道と府内を結ぶ出入り口だったため、近在から荷物を運ぶ荷駄馬が頻繁に通ったが、もっぱらその馬子たちのひいきを得ていたことから「馬方そば」と異名するようになったと『四谷町方書上』にある。この書上は町名主が文政10年(1827)にお上に答申した文書。「二八」で一膳一六文だったが、量がほかのそば屋の三倍ほどもあったため繁盛したという。

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