そばの散歩道

麺類雑学事典

討ち入りそば

毎年12月になると、赤穂浪士の討ち入りが話題になる。 そば店としては「討ち入りそば」で縁がある。

元禄15年(1702)12月14日夜、 大石内蔵助良雄率いる元赤穂藩の浪士四七 名が、江戸本所松坂町の吉良上野介義央の 屋敷を襲い、主君浅野内匠頭長矩の仇を報 いたという話は、古くは人形浄瑠璃や歌舞 伎で人気を博し、現代でも映画やテレビで お馴染みである。

この討ち入りの前夜、義士一党がひそか に江戸市中のそば屋に集まり、そばやうど んを食べたという巷説もまた広く知られる ところだろう。東京・高輪の泉岳寺や京 都・山科の大石神社など義士ゆかりの寺社 が12月14日に催す義士祭では、そばを 振る舞うのが恒例になっている。江戸時代 後記の川柳集『誹風柳多留』にも、

打の縁切のゑんにて義士はそば

という句があり、当時から討ち入りとそば、 うどんは馴染みが深かったことがわかる。 なお、一般に討ち入りの日は12月、14 日夜ということになっているが、実際の吉 良邸襲撃の時刻は日付が変わって翌15日 未明の七ツ(午前4時)であり、晴れた月 夜だったそうである。

また、いうまでもなく元禄15年12月 15日は旧暦での日付であり、新暦に直す と1703年1月30日に当たる。しかし、 こうした記念の行事は旧暦の日付のまま行 うのが慣習であり、その伝でいくと今年は 区切りよく、ちょうど300年ということ になる。

ちなみに、この義士の仇討ち事件を題材 にした『仮名手本忠臣蔵」は、寛延元年 (1748)、竹本座(大阪・道頓堀)での 人形浄瑠璃の初演以来、興行して不入りの ことがない。いつ演じてもよく当たること から、漢方の煎じ薬にたとえて「芝居の独 参湯(どくじんとう)」と称される。

それはともかく、問題は義士たちが本当 に、討ち入り前の縁起をかついで、そば屋 に勢揃いしたのかどうかということだが、 結論からいえば、事実ではないというのが 定説になっている。

両国のそば屋楠屋十兵衛に集結した説を 唱える『泉岳寺書上』という古文書はじつ は偽書とされている。また、討ち入りの翌 年頃には、うどん屋久兵衛に集まったとい う説が出ているが、四七士の中でただひと り生き残った寺坂吉右衛門信行(討ち入り 直後に浅野本家に首尾を報告。その後自首 したが不問に付された)が、自著『寺坂信 行筆記」の中で明確に否定しているという。 大事を前にしてそば屋なりうどん屋に集ま るなど、人目に付くような軽率な行動をと ることはあり得ないというのだが、もっと もな話だろう。

ただし、同書によれば、吉田忠左衛門ら 数人が集合場所に集まる前に茶屋でそば切 りなどを食べたのは事実だそうである。