そばの散歩道

麺類雑学事典

そばの食器

江戸時代末期、天保・嘉永期(1830~54年)の風俗の記録である『守貞謾稿』は、当時のそば屋についての描写のなかで、食器については次のように記している。

江戸は、二八の蕎麦にも皿を用ひず、下図の如き、外面朱ぬり、内黒なり、底横木二本ありて竹簀をしき、其上にそばを盛る。是を盛りと云。盛そばの下略也。だし汁かけたるを上略して、掛と云。かけは丼鉢に盛る。天ぷら、花巻、しっぽく、あられ、なんばん等、皆丼鉢に盛る。

筆者自筆の図には、四段重ねにした蒸籠とつゆ徳利、猪口が描かれている。蒸籠の最上段には蓋をするようになっているものの、現在と同じ供し方である。いや、現在も当時と同じ供し方をしているといったほうが正確だろう。

しかし、これをもって蒸籠が江戸時代からのそばの伝統的な器と断じるのには、少なからず無理があるようだ。というのも、このように簀を敷いた蒸籠にそばを盛るようになったのが、江戸時代のどの時期からなのかがはっきりしていないからである。

たとえば、幕末の『五月雨草子』という随筆によると、文化(1804~18年)の末頃のそば屋の器は、

必ず磁皿に盛りて出す物なり。蒸籠に盛るは極略したることにて、遥後に出来たりといふ。

もちろん、この二書の記述だけを根拠に断言することはできないわけだが、『五月雨草子』を採るとすれば、冷たいそばの器は蒸籠、温かいそばの器は丼鉢というスタイルが江戸のそば屋に定着したのは、『守貞謾稿』の書かれる少し前の文政(1818~30年)から天保にかけての時期だったことになる。

『守貞謾稿』の著者、喜田川守貞は大阪に生まれ、30歳の時(天保11年・1840)に江戸に出た人である。したがって、かりに蒸籠の普及がその時期だったとしても、守貞の目にはしごく当然のありように映ったとも考えられるわけだ。もう少し考証的な視点から書き残してくれればよかったのにとも思うが、致し方ない。

それにしても、わずかな期間に江戸中のそば屋に蒸籠が行き渡り、完全に常識化していたというのには、ちょっと驚かされる。『五月雨草子』の書きぶりから察すると、どうやら著者は、磁器に盛るのが正式のやり方という信念を晩年まで曲げなかったようなのだが、なぜ蒸籠に盛るのが「極略したること」なのか、興味をそそられるところではある。

なお、そば屋での蒸籠の使用については、安永6年(1777)刊の評判記『富貴地座位』に「せいらう」を名目とするそば屋が二軒載っているが、詳細は不明。

いずれにしろ、そば屋が蒸籠を器に代用したのは、延宝(1673~81)頃に流行った蒸しそば切りが、そばを湯通しする代わりに蒸籠で蒸したことの名残とされている。