そばの散歩道

麺類雑学事典

変わりそば

最近人気の変わりそばは、最も趣味性の強いそばといえよう。変わりそばのなかでも、とくに色が鮮やかで見た目にも楽しめるものを「色物」と呼んで区別する。

ただし、色はともかく、変わりそばは食べておいしいとは限らない。たとえば、すりつぶした生イカを打ち込むいか切りなどは、イカが白いために色はつかないし、触感は細いかまぼこのようで、食べても何が入っているのかわからない。天ぷらそば、玉子とじそばといった種ものが、そばと種との味や風味の相性を大切にし、おいしいだけでなく栄養価も高いといった実質を本位とするのと対照的である。

いまのところ、最も古い変わりそばとされているのは、寛延3年(1750)刊の『料理山海郷』に出ている「玉子蕎麦切」、つまり卵切りだ。そば粉一升に小卵10個を入れ、打ち方は常のごとしとしているが、そば切りとして賞味するというより、料理材料として用いられていたようだ。ちなみに、この時代には「卵麺」という麺もあったが、こちらは小麦粉でつくる麺である。

また、寛延4年に脱稿した『蕎麦全書』には「三色そば」「五色そば」を名目に掲げるそば屋が紹介されているが、残念ながら、三色、五色というのがどんなそばだったのかについては触れていない。

その後、天明7年(1787)には、江戸うまいもの案内の『七十五日』に「紅切そば」が、寛政12年(1800)版『万宝料理秘密箱』続編には「海老蕎麦」が登場している。

紅切そばの紅の色をつけた混ぜ物の材料は不明だが、紅花の色素を利用したものかもしれない。紅花の花びらは古来、紅色の染料とされ化粧品の原料としても珍重された。種子からは良質の油(ベニバナ油)が取れる。古名は末摘花。

一方、海老蕎麦(海老切り)は伊勢エビのすり身を打ち込んだそばである。ただ、これも玉子蕎麦切と同様に料理材料として取り上げられている。したがって、変わりそばの一種ではあるが、そばとして賞味されていたのかどうかはわからない。しかし、江戸の料理文化が爛熟期を迎える文化文政時代(1804~30年)から幕末にかけては、柚子切りや茶そば、よもぎ切りなどさまざまな変わりそばが考案されており、この頃には遊びのそばとしてもてはやされていたことが窺える。

変わりそばが盛んになった背景には、寛延頃からの製粉技術の向上があったと考えられる。とくに色物の場合、混ぜ物の色を生かすためにはそば粉の色が白くなければならないが、寛延頃には程度はともかく「白い」そば粉があった。そしてこの時代は、料理に風流を求め、見立てを楽しむという遊び心が顕著になり始めていたといわれる。そういう料理観の変化が大衆食のそばにまで及び、変わりそばとして洗練されていったのだろう。