そばの散歩道

麺類雑学事典

精進のつゆ

精進料理というのは、本来は仏教思想に由来し、僧侶が修行のために日常的に食べる料理のことだったそうだが、現在ではそういう思想は別にして、動物性の材料を使わずに、植物性の材料だけでつくるすべての料理をいうようだ。

そばも古くは寺院との関係が深く、精進を代表する食べ物のひとつといえるが、いまそばつゆといえば、鰹節などの節類でとっただしが常識である。最近はだしに昆布を使うそば屋が増えてはいるが、あくまで節との併用であって節類のだしは欠かせない。というより、寛永20年(1643)刊の『料理物語』によれば、そばつゆには、まだ味噌味だったと考えられる江戸時代初期から、鰹節のだしが使われていた可能性が高い。

江戸時代は、江戸を中心としてそばが庶民の食べ物として一般化した時代だが、その始まりから早くも、そばは精進との関係が絶たれる方角を向いていたらしい。そば文化がそば屋という商売を通して発展した以上、料理としてのおいしさの追求は不可欠であり、つゆによりうまみを求めるのは当たり前のことだったといえよう。

しかし、享保(1716~36年)頃から天明(1781~89年)にかけて「そば切り寺」と名を馳せた浅草の道光庵では、さすがに魚類のだしは使わない精進汁に辛味大根の絞り汁を添えて出していた(『続江戸砂子』享保20年刊)。

また、『蕎麦全書』(寛延4・1751年脱稿)の著者である日新舎友蕎子は、垂れ味噌(味噌に水を加えて煮詰め、垂らした液体)と酒、鰹節を煮詰めて漉し、塩と溜醤油で味をととのえたものが当時の江戸市中のそば屋のつゆの目安としたうえで、自分は精進を好むため鰹節は使わず、醤油、酒、水を煎じてつくるという自家製のつゆを紹介している。いわく、「そばの汁は精進汁にして出す事古法也と知るべし」と。なお、そのつゆははなはだ塩辛いが、それは辛味大根の絞り汁をたくさん入れるのが好きなためだと断っている。本業のそば屋を押しのけて江戸随一の味ともてはやされた道光庵と友蕎子が、ともに精進のつゆに辛味大根の絞り汁だったということは興味深い。

以上は江戸の話だが、そばは大根の絞り汁で食べるものというのは、昔のそばどころでは当たり前の食べ方だった。おろしそばといえば福井や武生が有名だが、安永年間(1772~81年)の文献には、大根の汁で麺類を食べることを丹後や但馬、丹波では「若狭汁」というと書かれており、これは小浜の辛汁が伝わったものという。また、享保2年(1802)刊の『料理早指南』には、山村のそばつゆのつくり方として、木曽大根を熱灰のなかに入れてからおろして焼き味噌と混ぜる、という方法が紹介されている。

いずれにしろ、辛味大根を加える精進のつゆとそばとの相性が抜群だったのは確かのようである。