そばの散歩道

麺類雑学事典

きしめんの由来

きしめんは、漢字で「碁手麺」または「棊子麺」と書く。「碁子」「棊子」のいずれも、囲碁で使う碁石の意味である。いま「きしめん」といえば、名古屋名物の平打ちうどんだが、その名称になぜ、円盤状の碁石が当てられているのか。その由来は、未だにはっきりしていない。

碁子麺という文字が般初に壁場するのは、南北朝後期から室町時代初期(14世紀後半から15世紀の初め)頃の文献である『庭訓往来』で索麺(そうめん)とともに、点心として挙げられている。点心とは、禅寺で間食として食べられた軽い食事のことだ。

ただし、きしめんに限らず室町時代の文献には、麺の名称は書かれていても、どんな麺だったのかという説明がない。麺類の作り方がはっきりと書かれた書物が登場するのは江戸時代になって以降のことで、きしめんについては、18世紀後半成立の故実考証書『貞丈雑記』に、ようやく解説が出てくる。それによると碁子麺とは、小麦粉を水で練って薄く延ばし、竹筒で碁石状に丸く抜いたもので、茄でてからきな粉をまぶして食べたものらしい。

ちなみに、麺の先進国だった中国では宋代(10~13世紀)に碁子麺が流行したが、こちらは方形の乾麺で、茹でて肉のスープで食べるものだったそうである。

さて、平打ちうどんが脊場するのは江戸時代に入ってからで、17世紀半ばの『東海道名所記』が、三河の芋川(愛知県刈谷市)名物として「ひらうどん」を紹介している。また、有名な井原西鶴の『好色一代男』(天和2年・1682刊)にも、芋川名物ひらうどんが出てくる。

この平打ちうどんときしめんとの関係について言及されるのは、江戸時代後半である。当時の江戸では、平打ちうどんを「ひもかわ」と呼んでいた。形状が革製の紐に似ているためとする説があったらしいが、幕末の風俗の詳細な記録である『守貞漫稿』は、それなら紐革ではなく革紐と呼ぶべきで、「ひもかわ」とは芋川の訛りと指摘した上で、名古屋では「きしめん」と呼ぶと断言している。しかし、名古屋でいつ頃から、平打ちうどんをきしめんと呼ぶようになったのかについては、残念ながら触れていない。

また、明治初期の名古屋ではすでに、油揚げと青味を具にしたきしめんがあったことは確かという。

なお、きしめんという言葉の語源としては、名古屋城築城の際、キジの肉を入れた平うどんを普請方に供したことから「雑麺」と呼び、それが訛ったとする説。あるいは、紀州公が尾張公にその製法を伝えたことから「紀州麺」と呼ばれ、それが転じて「きしめん」になったとする説などもあるが、真偽のほどは不明である。

また、木曽の開田村では昔、そば粉を延して方形に切ったものを「碁子麺」と呼び、雑煮の餅の代わりにしていたという。