そばの散歩道

麺類雑学事典

江戸はそば

そばは江戸、とよくいわれる。対して、関西はうどん。上方落語の「時うどん」も、東京では「時そば」に変わっているほどだ。江戸そば、いまでいう東京のそばという言葉には、江戸人の粋とか趣味性への追慕の情が色濃くにじんでいる。しかし、江戸も初期の頃は、うどんの町だったというのが定説だ。

家康が江戸城に入城した天正18年(1590)当時、江戸は湿地帯の一寒村にすぎなかった。開府以降「天下普請」と呼ばれる町づくりが始まったが、当時の江戸人は上方から移住した人が中心だったため、うどんが好まれたという説がある。

しかし、徳川の本国の三河や上方から移ってきたのは、いわば特権的町人層で、実際の町づくりに従事したのは、大半が関東甲信越の農村から集まった人々だったともいわれる。とすると、初期の江戸でそばよりうどんが好まれたのは、必ずしも東と西の嗜好の違いのせいばかりともいえないことになる。万冶年間(1658~61)に東海道の茶屋で商っていた麺類の記録でも、うどん・そば切りの順に書かれていて、うどんが主流だったことを伺わせる。

江戸のそば屋の始まりとされる「けんどんそば」が登場するのは、四代将軍家綱の寛文年間(1661~73)。この時代には麺類の夜売りも始まっているが、その十数年後に出された夜売りの禁止令でも、うどん・そば切りとうどんが先に書いてあるという。

そば屋もできて、開府から80年以上も経っているのに、相変わらずうどんが優勢なのは、なぜなのか。その理由は不明だが、あえて想像をたくましくすれば、そばそのものの品質にも問題があったのかもしれない。

そもそも麺食としての歴史は、そばよりも小麦麺のうどんのほうがはるかに長い。そば切りがようやく文献に出てくるのは、戦国時代の天正2年(1574)。江戸時代初期の段階ではまだ生粉打ちだが、茹でると切れやすかったせいか、江戸では「蒸しそば」が売られていた時期もある。

小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは18世紀の初め頃で、二八そばが登場するのは享保年間(1716~36)。この「二はち」がそば粉と小麦粉の混合率を表すのかどうかは、いまだ結論が出ていないが、このころから夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようにもなっている。

また、江戸市中でそば屋の数がぐんと増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけての頃とされるが、この時期には、夜鷹そばに対抗して「風鈴そば」も現れている。

ところで18世紀後半は、安くて品質のよい関東の地回り醤油(濃口醤油)が、江戸市中で大量に出回るようになった時期でもある。江戸そばの粋が汁なしでは成り立たないことから考えると、江戸そば好みには、汁の向上も大きく関与しているともいえる。