そばの散歩道

麺類雑学事典

夜そば売り

明暦3年(1657)の振袖火事は、江戸府内のほぼ六割を焼け野原にしたが、その復興のために大量の労働者が江戸に流入した。当然、外食需要が急速に高まり市中に煮売り(振売り)が急増するが、その煮売りの中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた。

もっとも、最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かったようだ。ただし、夜売りの期間は、陰暦9月9日の重陽から3月3日の雛の節句までと限られていたという。

江戸市中のそば屋の数が増え始めるのは18世紀半ば以降のことで、夜の麺類の煮売りがそば中心に変わるのは安永(1772~81)頃のこととされる。しかし、それよりも早く元文(1736~41)頃から、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる。

夜鷹とは、夜間に道端で客の袖を引いた街娼のことだ。夜そば売りが夜鷹そばと呼ばれた理由は不明だが、客に夜鷹が多かったからとか、そばの値段一〇文が夜鷹の代金と同じだったから、あるいは夜鷹と同様に夜になると現れて商売したからなど諸説がある。売り物は温かいぶっかけ専門だった。

宝暦(1751~64)頃になると、夜鷹そばに対抗して「風鈴そば」という新手の夜そば売りが現れる。風鈴という名は、屋台の屋根に風鈴を下げていたからで、この風鈴を調子よく鳴らして客に知らせた。当時の夏の風物詩であった風鈴売りを真似たものらしいが、本来は夏の響きの風鈴の音を寒い季節に使ったところに新鮮味があった。そばの値段は一二文である。

風鈴そばは夜鷹そばと比べてはるかに清潔だったため、たちまち人気になったといわれる。夜鷹そばの不潔さについては、当の夜鷹そば屋でさえ腹が減っても食べなかったという笑い話が残されているほどだ。

その後、夜鷹そばも風鈴をつけ、清潔が売り物のはずだった風鈴そばも不潔になったことから両者の区別はつかなくなり、夜そば売りは夜鷹そば(風鈴をつけている)の名で総称されるようになる。

ちなみに、風鈴そばは種もの(しっぽく)を売り物にした。しっぽくとはいっても、せいぜいチクワか麩をのせただけだったようだが、どの時期からのことだったのかははっきりしない。しかし文化(1804~18)頃になると、ネギと油揚げをのせたなんばん、油揚げがメインの信田、海苔をのせた花巻、そうめんを温めたにゅうめんなども売っていたようだ。天保・嘉永期(1830~54)の記録である『守貞謾稿』は、「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」と記している。